私はテクニカルライティング教育を長く担当していました。その経験から、「文書は人の行動を左右し、安全性をも左右する」という事実を強く実感しています。文書の目的は単なる説明ではなく、人が正しく理解し、正しく行動するための指南ということです。
医薬・医療とは異なる分野ですが、テクニカルライティングの重要性を象徴する重大事例としてよく思い出されるのが、1991年末から1992年初頭に小笠原沖で起きた「たか号」ヨット事故です。悪天候のためヨットが転覆し、乗組員7名のうち6名が死亡した痛ましい事故です。原因となった要素は多くありましたが、そのうちの一つが「救命信号装置の使い方が分からなかった=説明書を読んでも理解できなかった」という典型的な「わかりにくい文書問題」でした。
説明書の表紙には「出荷時にバッテリー接続と動作確認試験が行われています」と書かれていたにもかかわらず、実際には本文側に「バッテリーはつながれていません」と記載されていたと言われています。転覆しパニック状態の乗組員には、「最初に何をすべきか」が全く伝わらなかったのです。
医薬・医療機器の文書も同じ構造的リスクを抱えています。SOP、作業記録、技術文書、申請資料など、あらゆる文書が製品の安全性・有効性・コンプライアンスを支えていますが、現場では専門用語(あるいは職場内用語)の多さ、手順の複雑さ、曖昧語の残存、属人化など、文書品質の課題が後を絶ちません。これらはヒューマンエラーや手順逸脱につながり、最終的には患者さんのリスクとなります。
さらに近年は、Investigator’s Brochure(IB)やCSR、プロトコルなどの作成を社外に委託するケースも増えています。効率化という点では有効ですが、開発者が本当に強調したいポイントが反映されないという問題が起きやすくなっています。製品の背景やリスクのニュアンスが十分に伝わらず、重要な情報が埋もれてしまうこともあります。テンプレートに沿って形式的に作られた文書は、用語不統一や曖昧表現が残りやすく、QA・薬事レビューの負荷が増えることも珍しくありません。
ここで重要になるのが、テクニカルライティングの基本原則です。特に「結論(ポイント)を最初に書く」という原則は、医薬・医療機器の文書においては安全性を守るための必須要件です。緊急時やストレス下では、文書を丁寧に読み進める余裕はありません。最初に「何をすべきか」「何が重要か」が明確でなければ、誤った判断につながります。
実は、FDAのWarning Letterでさえ、結論が冒頭に書かれていないため「何が問題なのか」が分かりにくいことがあります。条文引用や事実列挙が続き、肝心のポイントが後ろに埋もれてしまうのです。これは、文書構造が理解を妨げる典型例であり、テクニカルライティングの視点から見ても改善の余地が大きいと感じます。こうした事例が示すように、文書の構造そのものが安全性に影響するという認識が欠かせません。文書は単体で存在するのではなく、設計、製造、試験、薬事、委託先管理、市販後対応まで、製品ライフサイクル全体で参照され、判断の根拠となります。だからこそ、曖昧語の排除、用語統一、結論先行の構造化を徹底し、読者が迷わず理解でき
る文書を設計することが重要です。社外委託で作成した文書であっても、開発者の意図を正しく反映し、現場で安全に使える品質に仕上げる必要があります。
文書の品質を高めることは、最終的に患者さんの安全と企業の信頼につながります。たか号事件が示したように、文書の不備は重大な結果を招きます。だからこそ、私たちは「安全性を守る文書」をつくる責任を常に意識し続ける必要があります。
桑原美喜子
【あなたの作成する文書はわかりやすいですか】
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- 重要情報は冒頭に書かれているか

- 重要情報は冒頭に書かれているか
- 結論 → 理由 → 詳細 の順になっているか
- 曖昧語(適切に・十分に・可能性がある)を排除したか
- 手順は「1ステップ1アクション」になっているか
- 用語・表記は統一されているか
- 開発者の意図が反映されているか
- 社外委託文書の場合、背景情報の共有が十分か
- QA視点での整合性チェックが行われているか
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